2LC表敬訪問例会&地域社会学習Vol.9「甲賀忍者」B |
更新日:
2016年11月8日
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なぜ甲賀地方に優秀な忍者が誕生したのか?その理由として、3つの視点からご説明いただきました。
@室町幕府の騒乱で将軍や公家が甲賀の谷へ逃げ込み、都の最先端の文化がこの地に流れ込んできたことで、政治にも情報にも敏感になる。 A宗教が早くから伝わり経文を読めたり書いたりと識字率や知識が高かく、宗教による団結心が強かったため心に迷いがない。 B近江は渡来文化(製鉄・薬学・火薬など)が花開いた。山岳宗教は山から山へと修業するから、山伏はサバイバルに長けていたため知識・技術のレベルが高かった。
また全盛期の甲賀忍者の活躍では、1581年天正伊賀の乱、織田信長に加勢して伊賀に攻め入る。1582年神君甲賀・伊賀越え、徳川家康を護衛。1600年関ケ原の戦い、徳川方に与し秀吉方への諜報戦・寝返り工作など多岐にわたって活躍していたようです。
神君甲賀・伊賀越えについては、「伊賀者由緒忸御陣御伴書付」に服部半蔵ら伊賀者190人が伊賀から伊賀白子まで家康のお供をしたことが書かれているそうですが、西田氏は反論します。神君甲賀・伊賀越えは甲賀忍者が護衛したに違いない。そもそも2代目服部半蔵(正成)は三河生まれで、甲賀・伊賀の土地感はないはず。その前年には天正伊賀の乱があり、信長の家臣である家康を助ける義理がないといった見解でした。さてはて真相やいかに・・・
最後に甲賀忍者の血が皇室に受け継がれていると系図の説明がありました。光格(こうかく)天皇(在位1780年〜1817年)の祖父である岩室宗賢(そうけん)の先祖は甲賀の地侍で甲賀五十三家の一家であったとのことです。
忍者は甲賀が誇れる世界的資産!まだまだ謎の多い甲賀忍者・・・西田氏が所属する甲賀忍術研究会は現在の会員数13名、東京ほか甲賀市外のメンバーもおられます。 一、忍術関連の古文書を読んだり、歴史の跡を探索したり、情報交換して甲賀忍者達の実像に迫ること 一、得られた情報を発信し正しい忍者像を理解して頂ける方を少しでも増やすこと 一、少しでも地域に貢献できること 以上、興味のある方はぜひお尋ねくださいね。もっと詳しく教えてくれますよ!
場所:琵琶湖ホテル「瑠璃の間」 食事:甲賀忍び会席・・・甲賀人参、甲賀忍び里芋、甲賀杉谷蓮根、甲賀忍び白葱など甲賀市産の食材をたくさんいただきました。ご馳走さまでした。 |
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