5LC交流例会&地域社会学習Vol.13「大津の歴史的な変遷」A
更新日: 2017年3月14日
奈良に都ができて中央集権の時代に入りました。今から1350年前、中大兄皇子(天智天皇)は都を飛鳥から近江へと遷都しました。遷都の理由は様々ですが、唐・新羅連合軍に攻め込まれたときのため、湖西は大陸や朝鮮半島から渡ってきた渡来人の子孫が多く住んでいたからとも言われています。

大津京はわずか5年間でした。大津市役所の裏に「弘文天皇長等山前陵」と名づけられた御陵が佇んでいます。弘文天皇とは大津京を開いた天智天皇の第一皇子・大友皇子のことで、「壬申の乱」で敗れた近江朝廷側の総大将でした。この辺りで自害、25才の若さで生涯を閉じた悲運の天皇です。

大津京が廃されてから大津は「古津」と称されるようになりました。古都の港・古い港という意味でしょうか。その後、平安京へ遷都した桓武天皇によって、「古津」は天武天皇の足元で、平安京にとっても重要な港であるから、昔の呼び名で「大津」と改称するよう命令が下されます。

木村先生は地名を聞けば謂れがわかるといいます。近江八景にある「粟津の晴嵐」は、当時粟津の湖岸には幹回り3mもある松の並木が800mも伸びていたそうです。晴れの日に湖から吹く風によって、松の葉がすれて大きな音が嵐のように鳴ったとのこと。真相はわかりませんが、なんとなくそんな感じがします・・・

信長の坂本城、秀吉の大津城、家康の膳所城と三英傑のお城が市内にあるのは珍しく、いずれも水城でした。大津城は関ヶ原の戦い後に廃城となり、天守や石垣などが膳所城や彦根城に移築されたと伝えられています。また広重の近江八景「瀬田の夕照」は瀬田城の上から描いたそうです。

松尾芭蕉は大津の優れた風情を数多く詠んでいます。そして遺言により義仲寺に墓を建てさせました。なぜ大津を死に場所と決めたのでしょうか?芭蕉は琵琶湖を抱く近江の風光をこよなく愛していたのは確かですが、大津の門人たちと人間らしい心温まる交流を重ねたからだといいます。またアーネスト・フランシスコ・フェノロサも「墓を琵琶湖の見える法明院に」との遺言を生前に残しています。

本日は1時間で縄文時代から近代にかけて大津の変遷を拝聴しました。心の拠り所でもある琵琶湖・大津。この素晴らしい歴史、文化、環境に感謝し精一杯生きてまいりたい思います。木村先生ありがとうございました。

場所:琵琶湖ホテル「瑠璃」
食事:ホワイトデーなのでフランス料理でした

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